慕心、明日へ。慕心、明日へ。

History白石会議~白石市と戊辰戦争

慶長七年(1602)片倉景綱が拝領

片倉氏の城下町白石

片倉景綱は仙台藩祖・伊達政宗を支えた重臣です。その通称である「小十郎」の名は代々の当主に受け継がれました。二代の小十郎重長は勇猛果敢な性格で知られ、“鬼小十郎”とも呼ばれました。慶長20年(1615)の大坂夏の陣では、伊達隊の先鋒を務め、真田幸村(信繁)と激闘を演じました。景綱の拝領から明治維新まで260余年にわたり、片倉家は城下町白石の整備に努め、現在の市街地の礎が築かれました。平成7年に復元された白石城の勇壮な姿、さらにはかつての三の丸外堀にあたる沢端川沿いに建つ武家屋敷・旧小関家の佇まいは往時の面影を今に伝えます。また、代々の当主の墓所である片倉家御廟所、片倉家の菩提寺である傑山寺、白石城の城門を移築した延命寺や当信寺など、由緒ある寺社も市内に点在。城下町の歴史を語り継いでいます。

■白石城

約260年に渡って片倉家が治めた白石城。仙台藩の南境を守るこの城の城主片倉家の石高はおよそ1万8千石でしたが、城の規模は10万石程の大名が入る城に匹敵する大きさでした。明治7年(1874)に解体された白石城が復元されたのは平成7年(1995)。江戸時代の姿を忠実に再現し、補強金具などを一切使用しない日本古来の建築様式で建てられました。三層の「大櫓」(天守閣)は、戦後の木造復元天守としては高さ(石垣天端から16.7m)、広さ(1階/東西九間×南北六間)とも日本最大級を誇ります。

慶応4年(1868)閏4月11日 会津藩の救済と停戦を求め、奥羽14藩の代表が白石に結集。
  • 慶応三年(1867)十月大政奉還
  • 慶応三年(1867)十二月王政復古の大号令
  • 慶応四年(1868)一月鳥羽伏見の戦い

戦乱の渦は奥羽越へ

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに端を発する一連の戦いは、この年の干支にちなみ戊辰戦争と呼ばれています。鳥羽伏見の戦いに勝利を収めた薩摩・長州等の勢力を背景に、新政府は旧幕府や会津・桑名両藩などに追討令を発し、仙台、米沢をはじめとする奥羽諸藩にも、会津藩討伐が命ぜられます。3月には、奥羽鎮撫総督九条道孝、下参謀世良修蔵ほか、鎮撫軍が仙台に派遣されます。こうして、奥羽諸藩は戦乱の渦に飲み込まれていくのでした。

慶応四年(1868)
七月十二日
輪王寺宮 白石へ

■200人の軍勢が警備にあたった戸沢口

今もなお宿場町の面影を残すこの場所は、七ヶ宿街道にあり、仙台藩領南側の境目でした。江戸時代は参勤交代のために10を越える大名がこの街道を通ったとされています。戊辰戦争の際は片倉小十郎邦憲の子、景範が200人の軍勢を率いて警備にあたりました。

白石城に軍議所設置

奥羽越諸藩にとって戦局が厳しさを増す慶応4年(1868)7月、列藩同盟が新たな権威として迎えた輪王寺宮公現法親王が白石に入りました。白石城には、当時、軍議所や奥羽越公議府と呼ばれる列藩同盟の重要な機関が設置されていたからです。同盟諸藩の代表が詰め、軍事・政務を執り行いました。
仙台と米沢の中間に位置する地理的な理由から白石に重要な機関が置かれたと推定されています。

慶応四年(1868)
閏四月二十日
世良修蔵暗殺

白石にある世良修蔵の墓

奥羽鎮撫総督府下参謀であった世良修蔵の暗殺は、奥羽越列藩同盟の行く末を決めた大事件でした。これまで、世良の対応に業を煮やしていた仙台藩士等が、福島にいた世良を襲撃、殺害したのです。これにより、仙台藩と新政府との交渉の道が事実上閉ざされ、また、奥羽諸藩は戦争回避の道が閉ざされることになりました。

  • ■世良修蔵の墓

    福島で殺害された世良修蔵の首は白石に運ばれ、初めは月心院に葬られましたが、後に現在の地に改葬されました。墓石の2文字が削られていますが、そこには「為賊」と刻まれていたと言われており、「自分たちは賊ではないということ」を訴えるかのように後年になって何者かが「為賊」の字を削ったとされています。

  • ■月心院跡

    世良修蔵の首がはじめに埋葬された場所がこの月心院でした。この月心院は2代目片倉小十郎重長が、真田信繁(幸村)を弔うために建立しました。江戸時代の終わりには既に廃寺になっていたと言われています。

明治元年(1868)9月15日 仙台藩降伏

白石城明け渡し

奥羽越列藩同盟は会津藩と庄内藩の救済を目的としながら、その一方で薩長が主導する新政府と対峠する政権構想の体裁をなしていました。しかし、明治元年(1868)9月4日に米沢藩、同月15日に仙台藩と中心的役割を果たした2藩の降伏により、奥羽越の諸藩による政権の夢は潰えてしまったのです。

戊辰戦争の敗北後、仙台藩は28万石に削封され、片倉家は白石城とその領地を召し上げられます。こうして260年余り白石を治めてきた片倉家と家臣たちは領地を失い、新たな領地を得るために歩み出すことになりました。

明治三年(1870)六月二十五日北海道へ向け
第一陣出発

■刈田神社

明治3年(1869)片倉家主従が移住した北海道登別市に刈田神社があります。移住した後、この刈田神社に片倉家の当主が代々尊崇してきた「刈田嶺神社」の祭神である日本武尊の分霊を奉じて合祀しました。その他にも境内には片倉家主従が開拓したことを記念して建てられた「開拓記念碑」があり、当時の苦労を今に伝えています。

北海道開拓と片倉家臣

領地を失った片倉家臣たち、彼らは、武士として北海道へ行くか、刀をおいて農民となるか選択を迫られます。その中で武士として生きることを選択した家臣たちは、北の大地へと向かいます。そこには大変な困難が待ち構えていました。

幕末・維新 白石関係年表

慶応3年 丁卯
(1867)
10月
12月
大政奉還
王政復古の大号令
慶応4年 戌辰
(1868)
1月
1月17日
鳥羽伏見の戦い
仙台藩に会津征討が命ぜられる。
2月29日 片倉邦憲、会津征討の「御前備先陣」となる。
3月18日 奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬、下参謀大山格之助(薩摩)、
世良修蔵(長州)ら一行が松島に到着。
3月23日 鎮撫軍仙台の養賢堂に入る。総督等は仙台藩を叱咤し、会津征討を急がせる。
3月25日 越河口へ向け伊達筑前隊仙台出立。
4月9日 片倉邦憲隊、仙台出立。
4月11日 江戸城開城
4月11日 仙台藩、会津征討の本陣を白石に置く。伊達慶邦、この日白石に向け出立。
4月13日 伊達慶邦、白石城着。同日、片倉邦憲が白石城を立ち越河に着陣。
4月16日 世良修蔵、白石入り。翌日福島入り。
4月22日 九条総督筑前兵等とともに白石城入り。その後大河原へ。
閏4月1日 関(七ヶ宿町)で仙台・米沢・会津が会談。会津の謝罪条件の受入が決定。
閏4月11日 白石会議。奥羽14藩の代表が白石に集結。
米沢藩主上杉斉憲、軍勢と供に白石入り。
閏4月12日 九条総督に対し、仙米両藩主嘆願書を提出。
閏4月14日 世良修蔵、仙台藩に討会の遅れをなじる。
閏4月15日 白石本陣から会津征討の解兵令が出される。
閏4月17日 総督、12日の歎願書を却下。
閏4月20日 未明、福島にて世良修蔵が殺害される。
白石において、世良の首実検が行われる。月心院に埋葬される。
閏4月20日 会津藩が白河城を攻略。
閏4月21日 伊達慶邦、仙台へ帰る。
閏4月22日 白石において盟約を審議。「白石盟約」に基本合意。 諸藩代表が仙台へ移動。
5月 上旬 奥羽越列藩同盟成立。
5月18日 九条総督一行が秋田へ向け仙台を出立。
6月 奥羽北越同盟軍政総督府の名で「討薩の檄文」が発せられる。
6月29日 輪王寺宮、白石に入る。その後仙台へ。7月2日着。
7月12日 輪王寺宮、額兵隊に供奉されて白石に入る。
7月14日 白石城内に軍議所(奥羽越公議府)が設置。
7月29日 二本松落城
7月29日 片倉邦憲越河へ出兵。総勢122人。
8月3日 片倉景範が上戸沢へ出兵。総勢204人。
8月6日 伊達慶邦、白石城入り。
8月9日 伊達慶邦白石城出立。片倉景光に歌とお菓子を賜る。
8月26日 榎本武揚、旧幕府艦隊を率い寒風沢に入る。
8月28日 米沢藩降伏。
明治元年
(1868)
9月8日
9月15日
明治と改元。
仙台藩降伏。
9月22日 会津藩降伏。
9月24日 盛岡藩降伏。
10月8日 榎本艦隊、蝦夷地へ。
10月8日 翌日の白石城明け渡しにつき、書付を片倉景範が受ける。
10月9日 白石城を白川口総督府へ明け渡す。
10月12日 白石城は当分の間、片倉家へ預け置く旨の達がある。
10月14日 白石の器械(武器)類を点検。
12月8日 刈田郡ほか13万石が南部彦太郎の領地になる。
明治2年 己巳 1月7日 片倉小十郎の領地召し上げにつき行政官より達しがある。
2月20日 片倉邦憲より家臣たちの土着帰農を求める歎願書が提出される。
(1869) 4月 旧片倉家中横山一郎、齋藤良知の両名上京。蝦夷地跋渉の斡旋を計画。
5月 仙台藩、版籍奉還を願い出。(翌月知藩事に伊達亀三郎(宗基)が任命される)
6月17日 南部彦太郎白石藩知事に任命。
(戌辰) 7月 政府、太政官直属の機関として開拓使を設置。
8月5日 三陸磐城両羽按察府が白石に設置。
8月7日 白石県設置。
8月23日 政府、仙台藩に対し、北海道開拓の志願者を募って自費移住をさせるよう命じる。
8月 旧片倉家中、齋藤理左衛門、横山一郎両人の名で、按察府へ北海道開拓を願う嘆願書提出。
9月13日 太政官より、片倉家へ自費をもって跋渉の旨お沙汰あり。幌別郡が支配地となる。
明治3年 庚午 6月25日 幌別へ向け第一陣が寒風沢出帆。(29日幌別着)
 
慶応3年 丁卯(1867) 10月 大政奉還 12月 王政復古の大号令
慶応4年 戌辰(1868) 1月 鳥羽伏見の戦い 1月17日 仙台藩に会津征討が命ぜられる。
2月29日 片倉邦憲、会津征討の「御前備先陣」となる。
3月18日 奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬、下参謀大山格之助(薩摩)、
世良修蔵(長州)ら一行が松島に到着。
3月23日 鎮撫軍仙台の養賢堂に入る。総督等は仙台藩を叱咤し、会津征討を急がせる。
3月25日 越河口へ向け伊達筑前隊仙台出立。
4月9日 片倉邦憲隊、仙台出立。
4月11日 江戸城開場
4月11日 仙台藩、会津征討の本陣を白石に置く。伊達慶邦、この日白石に向け出立。
4月13日 伊達慶邦、白石城着。同日、片倉邦憲が白石城を立ち越河に着陣。
4月16日 世良修蔵、白石入り。翌日福島入り。
4月22日 九条総督筑前兵等とともに白石城入り。その後大河原へ。
閏4月1日 関(七ヶ宿町)で仙台・米沢・会津が会談。会津の謝罪条件の受入が決定。
閏4月11日 白石会議。奥羽14藩の代表が白石に集結。
米沢藩主上杉斉憲、軍勢と供に白石入り。
閏4月12日 九条総督に対し、仙米両藩主嘆願書を提出。
閏4月14日 世良修蔵、仙台藩に討会の遅れをなじる。
閏4月15日 白石本陣から会津征討の解兵令が出される。
閏4月17日 総督、12日の歎願書を却下。
閏4月20日 未明、福島にて世良修蔵が殺害される。
白石において、世良の首実検が行われる。月心院に埋葬される。
閏4月20日 会津藩が白河城を攻略。
閏4月21日 伊達慶邦、仙台へ帰る。
閏4月22日 白石において盟約を審議。「白石盟約」に基本合意。 諸藩代表が仙台へ移動。
5月上旬 奥羽越列藩同盟成立。
5月18日 九条総督一行が秋田へ向け仙台を出立。
6月 奥羽北越同盟軍政総督府の名で「討薩の檄文」が発せられる。
6月29日 輪王寺宮、白石に入る。その後仙台へ。7月2日着。
7月12日 輪王寺宮、額兵隊に供奉されて白石に入る。
7月14日 白石城内に軍議所(奥羽越公議府)が設置。
7月29日 二本松落城
7月29日 片倉邦憲越河へ出兵。総勢122人。
8月3日 片倉景範が上戸沢へ出兵。総勢204人。
8月6日 伊達慶邦、白石城入り。
8月9日 伊達慶邦白石城出立。片倉景光に歌とお菓子を賜る。
8月26日 榎本武揚、旧幕府艦隊を率い寒風沢に入る。
8月28日 米沢藩降伏。
明治元年(1868) 9月8日 明治と改元。 9月15日 仙台藩降伏。
9月22日 会津藩降伏。
9月24日 盛岡藩降伏。
10月8日 榎本艦隊、蝦夷地へ。
10月8日 翌日の白石城明け渡しにつき、書付を片倉景範が受ける。
10月9日 白石城を白川口総督府へ明け渡す。
10月12日 白石城は当分の間、片倉家へ預け置く旨の達がある。
10月14日 白石の器械(武器)類を点検。
12月8日 刈田郡ほか13万石が南部彦太郎の領地になる。
明治2年 己巳(1869)(戌辰) 1月7日 片倉小十郎の領地召し上げにつき行政官より達しがある。
2月20日 片倉邦憲より家臣たちの土着帰農を求める歎願書が提出される。
4月 旧片倉家中横山一郎、齋藤良知の両名上京。蝦夷地跋渉の斡旋を計画。
5月 仙台藩、版籍奉還を願い出。(翌月知藩事に伊達亀三郎(宗基)が任命される)
6月17日 南部彦太郎白石藩知事に任命。
7月 政府、太政官直属の機関として開拓使を設置。
8月5日 三陸磐城両羽按察府が白石に設置。
8月7日 白石県設置。
8月23日 政府、仙台藩に対し、北海道開拓の志願者を募って自費移住をさせるよう命じる。
8月 旧片倉家中、齋藤理左衛門、横山一郎両人の名で、按察府へ北海道開拓を願う嘆願書提出。
9月13日 太政官より、片倉家へ自費をもって跋渉の旨お沙汰あり。幌別郡が支配地となる。
明治3年 庚午 6月25日 幌別へ向け第一陣が寒風沢出帆。(29日幌別着)